『逃げろ……逃げてくれ………』


今もまだ、脳裏に、何度も何度も語りかけるように、残っている言葉がある。
忌々しい過去の象徴。罪を償い、転生を経ても尚、変わらずに鼓膜に取り付き、否応無しに響いてくる声が。
「……違う…もう、違うのだ…」
それを無理矢理振り払うように、若狭は一人呟いた。
今、若狭は、ホルルト村の外れの森で、一人深緑に身を隠すようにして佇んでいた。
もたれかかっていた木を振り返り、ガンッ、と拳を振り下ろす。それでも尚、脳裏に焼きついたものは消えない。それを振り払うべく、ガン、ガン、と何度も何度も木を殴りつける。
幾数年にも渡る償いを経て、この身は確かに浄化された筈だ。己は、もう前の己でもプリニーでもない。
それなのに、何故(なにゆえ)!何故、まだ、この罪を忘れられぬのだ……!!
寧ろ、あの少女を助けてから………思い出したくもない過去が、より一層、沸々と音を立てて、蘇ってくる気がしてならない。
最後に、一番大きな音を立てて拳を打ち付けて、若狭は独り歯を強く食い縛る。
このままでは、自らの立場が非常に危うい。まして周りは、少しでも隙を見せれば、それを切欠に馴れ馴れしく仲良くなろうする者ばかりだ。少しの油断が、一気に友好の輪を生んでしまう。
その前になんとかしなければ。その為には、形上ではあるが、あの弟子を名乗る少女が邪魔だ…
「己は傍観者。何人たりとも、必要以上に接さず、ただ遠くから見守るだけの存在……」
若狭は、まるで自分に言い聞かせるように、低い声色でそう呟きかけだ。そして、勢いよく森を飛び出すと、再びホルルト村の方へと戻るべく歩き出した。





断罪傷跡 前編





「「ガーラーテーア!」」
「…………」
シャルルとローラの明るい声が、最近加入したばかりの盗賊の少女の名を呼ぶ。呼ばれた本人、ガラテアは、警戒心たっぷりのしかめっ面をして、数歩後ずさりして距離を置く。
「ろ、ローラ、あたしたち警戒されてるみたいだよ…?」
「あれ…?おかしいわね…イヴちゃんの時はコレでスキンシップに成功したのに…!」
「……アホかお前ら」
"にっこり笑顔でガラテアと仲良くなろう"作戦があっけなく失敗してしまい、真面目に協議するシャルルとローラ。そんな二人を、後ろに立っていた閃光が呆れ顔で一蹴する。
「ガラテアは若にしか懐かないって知ってるだろ。無理に仲良くなろうとしたら逆に警戒されるぞ」
「にょ、だ、だって閃光ー!折角仲間が増えたのに、楽しくお喋り出来ないのってなんか嫌じゃん!折角ガラテア可愛いのに、こんな不機嫌そーな顔しか見れないってのも…」
「そうよ、やっぱり笑顔が見たいわ。マーシェルさんもそう思いません?!」
「おう!皆仲良くするのが一番だぞー!」
そこでマーシェルに話をふったら、賛成するのは当然だろう。
…そう閃光は思ったが、どうやら通じないみたいだ。しかもこのままだと、ガラテアと仲良くなろう派が三人、無理強いはいけないよ派(つまり自分)が一人。明らかにこっちが不利だ。三人の期待たっぷりの視線が痛くて、うぐ、と閃光は低く呻いた。
「わ、分かった、分かったって。まあ、どっちにしろ無理だと思うけどな。ガラテア本人がアレじゃあな」
くい、と閃光がガラテアを指差す。確かにガラテアは、明らかに此方を敵視している。口はへの字に曲がっていて、まさに、仏頂面と言うに相応しい面構えだ。こんな状態から仲良くなるのはかなり難しいだろう。
「うぅ…確かに。笑顔作戦は失敗したし…。うーん、どうすればいいんだろ……」


「それなら、良い方法があるッスよー?」


「「「「え?」」」」
突然、後ろから降り掛かった言葉に、四人がそんな間抜けた声を出して振り返る。
すると、そこには―――青色と灰色のプリニーが二匹、ちょこんと佇んでいた。
「お、リビティーとスピカじゃないかー。どーしたんだ?」
マーシェルがそう声をかける。この二匹は、プリニー神のリビティー(シャルル命名)ことリビティナと、プリニー隊のスピカ。実は魔物軍団の中でも結構名の知れた、古株な奴らだ。
「マーシェルの姉貴、お久し振りッスー。ちょいと皆さんの話を耳に挟みまして…日頃お世話になってる姉貴へのお礼も含めて、オレ達が役立てるかと思いましてッスー。」
「マジかよ…?!なんか秘策でもあるのか?!」
「フッフッフッ、大有りッスよ。まあここはオレ達に任せるッスー!」
大々的に宣言すると、ぽてぽてとリビティーとスピカはガラテアの方に近寄っていく。
「おーい!そこの盗賊、こっちに注目ッスー!!」
スピカの呼びかけに反応して、ガラテアが視線だけを此方に向かせる。しかし、相変わらず無表情のままだったが。
リビティーとスピカは、ごそごそとカバンの中を探り、なんとそこから無数の爆弾を取り出し、ポイッと空に投げたかと思えば、ぽいぽいと見事にお手玉する。


「「オレ達二匹のここぞという時の隠し技!!ダブル爆弾ジャグリングッス―――!!!」」


「…………」
「オイ、無反応だぞ」
「すべったねー、リビティーにスピカ」
ガラテア、無言。更には目線がかなーり冷ややか。
閃光とシャルルの現実的かつ鋭いツッコミを受けて、がびびーん!と二匹はショックを受ける。マーシェルとローラはそれなりにウケているようだが、ガラテア本人が笑わないと意味はない。
「お、オレ達のこの芸で笑わないとは…な、なかなか強敵ッス…!!」
はあぁ、と閃光が盛大な溜息を吐く。
「…お前らの秘策はこれだけか…?なら早く帰ってほしいんだが……」
「ちょ、ちょっと待つッスー!!オレ達の秘策はここからが本番ッスよ!!」
「さ、さっきは失敗したッスが、今度こそ確実ッス!!」
「あぁ?それなら早くやってみろよ」
さっきのすべりでイラついてきた閃光が、妖刀村正を片手に二匹を脅しかける。二匹はひぃぃ、と恐れをなすと、慌てて再度ガラテアを呼び止め、今度こそ真面目に本領発揮する。
「盗賊さ〜ん、ちょいと待つッスー!」
「…………」
先程の失態ですっかり警戒心が強まったのか、ガラテアは全く目を合わせようともせず、そのままスルーして立ち去ろうとする。
「タ、タンマッス!無視しないで欲しいッス!こ、これは盗賊さんにとってもナイスな情報ッスよ?!………アンタの大好きな師匠の情報、知りたくないッスか〜〜〜?!!」
ぴくっ。
"師匠"…その言葉に反応して、ガラテアが立ち止まる。どうやら、二匹の思惑通り食いついたようだ。
そして、ゆっくり此方を振り向くと…ここで初めて、ガラテアが自ら進んで口を開く。
「……師匠の、情報…?」
「フフ、そうッス、アンタも知らない有力情報ッス!…ただ〜し、そんな離れてちゃ、話すものも話せないッス。オレ達の傍に来てくれるなら、話してやってもいいんッスけどねぇ〜?」
「…………」
リビティーとスピカの出した要求に、ガラテアは暫し考え込んでいたが、"師匠の有力情報"というあまりに魅力的なキーワードに負けたのか、おずおずと此方に近寄ってくる。
「わっわっ!リビティー、スピカ、すごいすごい!」
「は〜…、なかなかやるじゃないか、お前ら…」
「へへ、この位朝飯前ッス♪」
「お手柄だな二匹ともー!後でごほーびやるからなー!」
「あ〜、ずるいですマーシェルさん!私もマーシェルさんのご褒美欲しいです〜!!」
「おー…んじゃ、しょうがないなー。特別だぞー」
「やったーww」
ローラが、満面の笑顔で、勝ち誇ったようなガッツポーズをする。
そんな二人の様子もぼちぼちに、漸くガラテアが此方についたのか、皆の目の前で困惑した様子で立ち尽くしている。逃げたくとも逃げられず、どうにも落ち着かなさそうに、緊張で肩をいからせて、忙しなくそわそわしている。
「わーい、やっとガラテアと話せるよー!あ、あたしの事知ってる?」
「………」
「こらこら、黙ってちゃ駄目ッスよー?ちゃんと返事しないと話してやんないッスー」
「……なんだか、脅しくさくないか…?」
「悪魔は手段を選んだら駄目ッス!」
閃光の同情めいた呟きを、その一言で一蹴し、さあさあ、と二匹がガラテアに詰め寄る。ぐ、とガラテアは握り拳を作り、目を逸らしたまま、渋々その口を開く。
「…シャルル、同じ盗賊であだ名付けが趣味…」
「じゃあ、じゃあ私は?」
「あたいもいるぞ!」
「…アーチャーのローラ、魔物使いのマーシェル……姉妹の契りをしている…」
皆と距離を置いているから、てっきり分からないのかと思っていたが、どうやら皆とは話さずとも、ちゃんと顔と名前と、更には大まかな特徴は把握していたらしい。その声はやはり棒読みで、機械的な喋りではあったが、名前を覚えて貰えていただけでも嬉しいのか、三人が無邪気にはしゃぐ。
「じゃあ…俺の名前は分かるか?」
閃光が問いかけると、ガラテアは数秒悩み…ぼそり、と首を傾げながら、疑問系で呟く。
「…へっぽこ侍…?」
「ぐはっ!」
閃光の意外と脆いハートにクリーンヒット。
よりによって忌々しいあだ名で覚えられている事にショックを受け、よよよと涙目で落ち込み始める。
「閃光はそっちで覚えられてるみたいだね♪にゃははは〜♪」
「おまっ、誰のせいだと思ってんだ!」
「にしし、知らないよ〜だ♪」
明らかに犯人はこのあだ名をつけたシャルルなのだが、本人にまるで悪気はないらしい。寧ろガラテアのナイスボケ(?)に面白がっている模様。これには流石に閃光も怒り、せめてもの仕返しにと、シャルルを捕らえてはがいじめにした。
「このっ、お前みたいな生意気な奴はこうしてやる!」
「にゃぎゃっ!ご、ごめんってばぁ!離してよ閃光〜〜っ!」
仲良くじゃれあう(?)二人を、冷ややかな、けれど何処か羨ましそうな、複雑な視線でガラテアは一度だけ見据える。が、しかし、すぐにプリニー二匹を睨みつけるように見下ろすと、単刀直入に切り出した。
「……師匠の情報は…?」
「あ、勿論教えるッスよ。あんまり大きな声じゃ言えないんで、ちょっと耳貸してくれるッスか?……ごにょごにょ……」
リビティーが、ひそひそとガラテアに耳打ちする。すると、途端にガラテアは、虚ろだった眼をカッと見開き、声は出さずとも、明らかに驚いたような顔をした。
「嘘……」
「嘘じゃないッスよ。疑うなら、若本人に確かめてみたらどうッスか?」
「………」
「お、噂をすればあれは若じゃないかー?」
「!!」
マーシェルの唐突な発言に反応して、皆が一気にマーシェルの指差す方向に目線を集める。言うとおり、そこには丁度帰って来たらしい若狭の姿があった。
此方の手前2メートルほどまで近寄り、明らかに自分に視線が集中している事に気付いたのか、若狭はすぐに、彼らの話していた内容に自分が絡んでいたのだと悟った。
「……貴様等…、何の話をしている………?」
「い、いや若…これは別に…」
しどろもどろに、なんとか言い訳をしようとする閃光だったが、もはやバレバレである。若狭が槍を手にしようとしたが、しかしそれよりも早く、ガラテアが若狭の元に寄っていった。
「ガラテア…」
ガラテアは、素早く若狭の後ろに隠れるようにしてくっつき、皆の方を流し目で睨みつける。
「あーあ、ガラテア、若のところにいっちゃったー」
一度、ガラテアの敬愛する師匠・若狭の所に行ってしまえば、これはもう帰ってこないなーと、皆明らかにがっくりとする。
「まあいいだろ。少しだけでも喋れたんだし」
「うん、そうね、閃光の言うとおりだわ。これだけでも前進よね」
「またなーガラテアー!」
マーシェルがぶんぶんと大きく手を振る。それにつられて、皆もガラテアに手を振って見送った。
その様子を垣間見て、若狭は、思考をより確信に近付かせた。
(やはりガラテアは、徐々に皆に溶け込みつつある…。このままでは拙者も巻き込まれかねない。やはり早急に事を済ますべきか……彼等がこの娘を受け入れるのならば、後の問題も心配する必要はあるまい……)
そう考え込んでいた途中で、ガラテアが、若狭の服をぎゅぅっと掴み、何か言いたそうに此方を見上げていたので、若狭も視線だけを其方に落としてやる。
「師匠。師匠に話があります。なので、出来れば二人になれる所に行けませんか」
「………分かった。拙者も汝に用があった所だ、丁度いいだろう」
地理が分かる若狭が先行して、村の静かな所へと歩いていく。その後ろをガラテアが、遅れないようにと足早についていく。
「おおお!早速行動する気っすねあの盗賊っ子!」
「これは若のかつての同僚として見守るしかないッス〜!」
この発端を作った犯人二匹が、意気揚々として、若狭とガラテアの後をぽてぽてと追っていった。




「…それで、話とはなんだ?」
「はい。……先程、聞いた事なのですが……」
一度呼吸を置いてから、ガラテアはその先を話す。
「……師匠は、ミーメイというプリニーから転生したというのは、本当ですか?」
「!!」
予想外の質問が飛んできたことに、思わず眼を見開く。
その話題が一部の仲間に広まっていた頃、ガラテアはまだいなかったのだし――だから、まさかガラテアにその事を問われるとは、若狭は微塵も思っていなかった。不意をつかれるようなその一言が切欠で、脳裏に過去の過ちの残影が蘇りかける。目をきつく伏せ、その光景を必死で振り払い、苦しく脈動する胸を押さえて、若狭は低い声色で問い返す。
「誰から、その話を聞いた…」
「あの後ろについてきてるプリニー二匹からです」
言われ、ガラテアの後ろに視線を向けると――そこには、壁の影から、モロに野次馬根性丸出しで、ひらひらと手を振っているプリニー二匹がいた。
(あ、あいつらか…………!!!)
かつて自らもプリニーだったというのもあり、あの二匹には明らかに見覚えのある若狭。
同じ、業を背負い、罪を浄化する為に働く者として、お互いの過去をよく話した事は記憶に残っている。…まさか、それがこんな所でとてつもない地雷になるとは思わなかったが。
…兎に角、なんてことをしてくれたんだお前達は、という怒りを込めて、若狭は二匹を睨みつける。
<ここからは若とプリニー二匹達によるテレパシー会話をお楽しみ下さい>
(いや〜若もスミに置けないッスねv折角弟子が出来たんッスから、このくらいちゃんと話しておかなきゃ駄目ッスよ〜)
(この際、傍観者とかめんどっちいことするのはさっさと辞めて、可愛い弟子とのドリームワンダフルライフを堪能するッス♪)
(……(やかま)しい!!退け!!!)
((わ〜若がキレたッス〜♪逃げろッス〜♪))
ギン!!と若がとてつもない眼で睨みつけると、二匹はそんな捨て台詞を残し、そそくさと逃げていってしまった。
「…本当なんですね」
と、一部始終を見守っていたガラテアのその呟きで、若狭は現実に意識を引き戻される。
余計な事をしたあの二匹への怒りが、かなり心頭に発しているが、まずはガラテアに納得させてやらねば、と若狭は二匹を負うのを諦めた。
「否定はしない。…だが、何故(なにゆえ)そのような事を聞く。汝がそれを知って有意義なものがあるというのか」
「あります。私は師匠の事を何も知らないから。だから、師匠のことが知りたいんです」
何を言うのだ、この娘……。
若狭の胸中に、沸々とした苛立ちが募る。ただの好奇心にしては行き過ぎた問いに、一体何が目的なのだ、と不可解さが増すばかりだ。
しかしそれが分からずとも、若狭が出す答えは既に決まっていた。
「断る」
低い声色で、若狭は冷ややかにそう言った。
「どうしてですか?」
尚も食い下がってくるガラテアに、若狭の苛立ちが更に増していく。先程よりも冷酷にした声色で、若狭は吐き捨てるようにして言い放つ。
「…人には必ず、想起(そうき)するだけで不快に思う事柄があるからだ。言った筈だガラテア、拙者は汝の師匠である事を認めたつもりはない。よって必要以上の事を教える義理もないと。それを忘れて、このような下らない質問をしたつもりか」
「違います、ただ私は師匠の事が知りたくて…」
(またそれか……)
若狭の言葉が効いたのか、ガラテアの表情と声色にやや焦りが出始める。が、やはり一向にガラテアは問いに見切りをつけようとしない。本当に何が目的で、こんなに自らの事を聞きたがるのか、若狭にはさっぱり分からなかった。
…これ以上説明をしてやっても、どうせ無駄だろう…。若狭は面倒臭い理由を述べるのを止め、ガラテアを鋭く睨み降ろす。
「拙者は傍観者…何人たりとも、必要以上に接さず、ただ遠くから見守るだけの存在……それを邪魔するつもりならば、汝とて容赦はしない……」
「師しょ…」
「今日限りで破門とする。拙者と汝にもう縁は一切無い」
ガラテアの言葉を制し、無慈悲に吐き捨てると、若狭は、踵を返してその場を立ち去ろうとする。慌ててその背中を追い、ガラテアは若狭に後ろから抱き付き、彼の服を握り締めて引き止めると、必死の形相で叫ぶ。
「師匠!!待って下さい!!傍観者でいるのに私が邪魔だから、私を切り捨てるんですか…?!」
「そうだ」
ガラテアは、ごくり、と生唾を飲み込む。その先にくる問いを尋ねようとして――けれど、喉を枯らして尋ねかけて…、その苦しい呼吸を数度繰り返し、けれど聞かねばなるまいと――、意を決して、恐る恐る問いかける。


「……じゃあ…じゃあ、師匠は……、…私を、助けなければ…良かったって、思ってるんですか…?」


声が震えていた。
足が竦んでいた。
瞳が、恐怖と期待で潤んでいた。
それに気付いても、尚――何故そこまでして食い下がるのか、若狭は分からない。今してやれるのは、たった一つだけだ。
「………そうだな。悔いているやもしれぬ」
「―――ッ!!」
今出来た事は、この胸の奥にくすぶるものを還らせたこの少女に、思うままに素直な後悔を告げるだけ。
そして全ては終わる。またあの忌まわしい記憶は扉に閉じ込められる。もう思い出すことはない……戻ってくるのだ、独り、傍観者としての務めを正しく果たす日々が………。
(それなのに何故、こんなにも胸が痛む……?)
これでいい、これでいいのだ…。
言い聞かせるように心の中で何度も自分に語りかけながら、若狭はガラテアの手を払い除けると、そのまま去っていった。
一人残されたガラテアは、無気力に、ぺたんとその場に座り込む。
若狭の言葉が、ガラテアの脳裏を支配する。何度も何度も木霊して轟いていき、それと呼応するかのように、体中ががくがくと揺れる。無抵抗に溢れてくる雫のせいで、その虚ろな瞳を更にぼやりと曇らせていく。
ぽつり、と一つ雫が落涙した。
それを境にして、ぼたぼたと数多の雫が次々と零れていく。
しかしそれでも、その蒼眼は目の前を見据える事を止めなかった。遠くなる師の背中を、じっと逸らさずに。まるでそれしか見えていないように。
ただ、ただひたすらに、若狭の影を見据えたまま――
「師匠…師匠……、怒らせるつもりなんかなかったんです……、ただ、師匠の事が知りたくて……、師匠がいなくなったら、私は………」




「若…どうしたでござるか?先程から、落ち着かなさそうでござるが…」
「…何もない」
すっかり日も暮れ、黄昏の刻に入る頃――既に皆は、アデルの家の中に入り、夜御飯の支度を手伝ったり、暇潰しをして待っていたりしていた。
その中で、いつも若狭は、部屋の隅っこの窓際に一人佇むのが習慣であった。皆の輪に入らないようにと―――それは皆も習慣として馴染んでいたのだが、今日の若は何処か違っていた。その様子にいち早く気付いたヴァジーが、若狭にそう問いかける。が、若狭は目も合わさず、小さくそう否定するだけだった。
「にん…そうでござるか。…だが、今日は本当におかしいでござる。いつもの若らしくない……何に動揺しているのでござるか?」
拙者が、動揺している…?
ヴァジーに言われた言葉に、若狭が眉をピクリと顰める。そんな事が目に見えるほど、ましてや人に指摘されるほど、自分はおかしかったのだろうか…。
その理由として、先程自分が突き放した少女の事が頭を過ぎったが―――馬鹿馬鹿しい、と否定して、冷静を求め頭を横に振る。
そうだ、こんな乱れた精神ではいけない…、まだ夕餉(ゆうげ)までには時間がある筈だ。その前に一度、鍛錬でもして頭を冷やそう…。
そう思い起こし、若狭が槍を持って壁から背を離した瞬間、バタン!!と大きな音を立ててドアが開き、血相を変えたルーウェンが走り入って来た。
「大変だ!ガラテアがいなくなっちまった!!」
「……ッ!!」
ルーウェンが慌てて叫んだ言葉に、皆に一気に緊張が走る。
「ちょっと、野蛮人、それ本当なの…?!」
「ああ、村中探したけど何処にもいないんだ。時空の渡し人に尋ねたら、誰かが勝手に通った形跡があったって言ってたけど……何処へ行ったかまでは分からなくて……」
クローディアが問うと、ルーウェンは口早にそう説明した。状況を理解した皆の視線は、やはり、まず師匠である若狭へと自然に向く。ルーウェンとクローディアの二人が、先行して若狭に詰め寄った。
「若、ガラテアが何処に行ったか分からないか?!」
ぎくり、と、何故か若狭はおのめいた。聞かれた事にではない。あの名前に思わず反応してしまったせいだ。
「……知らぬ」
「そう…、ああ、どうすればいいの…ガラテア、まともに地理も分からないでしょうに…」
心配するクローディアの言葉が、余計に若狭の背中を圧迫した。先程振り払おうとしていた意識が、また蘇ってくる。嗚呼、まただ、あの少女の残影が過ぎる。少女の事ばかりが気になってしょうがなくなる。今まで経験した事のない、おかしな感覚――
(拙者が気にする事など無い…、あの娘は既に拙者の弟子ではないのだ…、だが…、………ッ)
ぎりり、と自らの口の端を噛む。意識に集中しているせいか、不思議と痛みさえ感じない。あまりにも強く噛み過ぎて、じんわりと血の味がした。
「………ッ」
「若?!何処行くんだ?!」
「若…?」
皆の声が届くより早く、若狭はいきなり槍を持ったまま家を飛び出して行った。
あんなに取り乱した若狭を見たのは初めてだったので―――皆は思わず、眼を大きく丸くし、驚愕して、暫く硬直したままだった。




(らしくない…、このような事は傍観者がすべき事ではない…、そんな事は既に分かっている…!だが、だが…拙者は、これだけは、どうしても捨て置けぬのだ……!)
初めて、若狭は自らの任務に背いた。
刻々と暗黒の世界へと染み入っていく方角の方に、ただ感じる"あの少女"の気配を頼りに、若狭は息が切れる程走り、自らも其処へと溶け込んでいった。










>>後編に続く



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